古代人に鎌倉武士に江戸商人…人々に親しまれてきた青梅の歴史と関連スポットを紹介!
青梅市は、東京都の多摩地区の北西部に位置する人口約13万人(2023年8月時点)の街です。東京都心まで電車でおよそ1時間10分でアクセスできる青梅市は、かつて江戸への通り道として賑わいを見せていました。
さらに歴史をさかのぼると、約1万6千年前の旧石器時代には人が住んでいたのだとか。鎌倉時代の三田氏による統治や明治中頃の統合などを経て、今の青梅市があります。
今回は、そんな青梅市の歴史を分かりやすく解説。青梅市の歴史にまつわるお出かけスポットや青梅市の伝統工芸品も紹介しているので、ぜひ最後まで読んでみてください。
平将門と梅にまつわるエピソードが市の名前の由来!
「青梅市」という市の名前は、平将門と梅にまつわるエピソードが由来になっています。ある日、平将門が金剛寺(現在の東京都青梅市)のあたりを訪れ、馬の鞍に使っていた梅の枝を地面に挿し、「願いが叶うなら咲き誇れ、叶わないなら枯れろ」と言いました。
すると梅の枝が根付き、梅の木まで成長します。しかしこの梅の木の実は熟すことなくずっと青いままで、枝から落ちることもありませんでした。青い梅が木になり続ける光景を不思議に思った人々が、この場所を「青梅」と呼び始めたと伝えられています。
約1万6千年前から人々の生活の一大拠点だった!青梅市の歴史を紹介
現在の青梅市のエリア内には、約1万6千年前の旧石器時代には既に人が住んでいたと考えられています。そこから平安時代にかけて集落が拡大し、江戸時代には江戸への通り道として栄えました。ここでは、旧石器時代から現代までの青梅市の歴史を、5つに分けて紹介します。
旧石器時代に狩猟生活が始まる|集落は平安時代にかけてどんどん拡大
現在の青梅市がある地域では、今から約1万6千年前の旧石器時代には人々が生活していました。早いうちから人が定住した理由のひとつに挙げられるのが、青梅市の自然環境。多摩川と荒川水系が流れるこの地域は水資源が豊富なため、生活を営みやすかったからだと考えられています。
青梅市の西側に目を向けると山があるため、栗やクルミのような木の実のほか、イノシシといった動物肉も採ることができました。市内には181カ所の遺跡が発見されており、いたるところで狩猟に使ったとみられる矢の根石も見つかっています。
青梅市の北西を流れる霞川の流域では、弥生時代以降に稲作が行われた跡が見つかり、辺り一帯で水田がひらかれていたことが伺えます。水源から遠く稲作が難しい場所では、畑作が進められました。畑作で使われた技術は、焼畑です。枯れかけた草木を燃やして肥料にし、アワやヒエなどの種をまいて育てました。この焼畑の技術を伝えたのは、朝鮮からの帰化人だったとされています。
弥生時代以降も青梅市内の集落は拡大を続け、10世紀ごろに編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という百科事典によると、平安時代中期には10の村ができていたとのこと。同じ平安時代には、青梅の地は武蔵国府造営のための材料を供給する場所としても集落が形成されました。
鎌倉以降約300年は三田氏の時代|経済基盤が整い寺社仏閣が創建・復興される
鎌倉時代以降の約300年間、青梅市を含む「杣保(そまほ)」というエリアは地方豪族の三田氏によって統治されていました。三田氏は青梅市とその周辺の豊かな林産資源をもとに勢力を強めた人々で、荘園を管理する「地頭」という役割を担っていたとされています。
三田氏は市場を設置して経済基盤の充実化を図り、青梅の地にある寺社仏閣の創建・復興に力を入れました。青梅市内にある乗願寺は三田下総守長綱によって創建され、つつじの名所として知られる塩船観音寺の本尊「十一面千手観音像」は三田氏が修理したと伝わります。天寧寺・住吉神社・武蔵御嶽神社といった現在まで残る青梅市内の寺社仏閣も、三田氏によって創建・復興されました。
三田氏は永正から天文(1504年~1554年)にかけての約50年間に最盛期を迎え、現在の埼玉県日高市や埼玉県入間市のあたりまで勢力を伸ばします。しかし最盛期を終えてすぐの永禄年間(1558年~1569年)に北条氏照によって滅ぼされ、三田氏の時代は幕を閉じました。
三田氏が滅んだとき、世の中は戦国時代。一度は北条氏の支配下に置かれた青梅市一帯でしたが、約20年後の天正18年(1590年)に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼします。秀吉は徳川家康に青梅市を含む関東一帯の領地を与え、青梅市とその周辺のエリアも徳川家が統治するようになりました。
江戸時代は青梅の大半が幕府直轄領に!江戸への通り道として賑わいを見せる
江戸時代になると、青梅市の大半が幕府直轄領になります。江戸の経済・文化の発展と合わせて青梅の地でも木材・織物・石灰などの産業が盛んになり、活気あふれるエリアへと進化します。多摩川の流れを活かした水運、東京都新宿区から山梨県甲府市を結ぶ青梅街道、江戸に近い立地であることもあり、かなりの賑わいを見せていました。
人々の往来が盛んになると、青梅街道を中心に「青梅宿(おうめじゅく)」という街並みが形成されます。青梅市の西側には山があり、山を下りてきた人やこれから山へ向かう人が小休憩する場所の需要が高まりました。そこで宿や茶屋、各地からの名産品が揃う市場などが集まり、青梅宿が発展しました。天保年間に刊行された、江戸の日本橋から武州御岳山までの道のりを説明したガイドブック『御岳菅笠』で、青梅宿が紹介されるほどの賑わいぶりだったようです。
また江戸時代初期から新田開拓が進められ、水を得られず荒野になっていた土地でも作物を育てられるようになります。特に小麦の品質が向上し、「臼は伊奈石、新町小麦」と謡われるほど高品質なものが採れるようになりました。江戸時代の青梅市は、農業・産業・交通・街並みなどあらゆる面で大きく躍進したと言えます。
明治中頃に1町6か村に統合|近代化が進む
江戸時代の青梅市には、約40の村がありました。明治維新後は品川県・前橋県・韮山(にらやま)県・岩槻県・神奈川県と編入先を転々とし、明治26年(1893年)に東京府に編入されます。時代が前後しますが、明治22年(1889年)には市制町村制の制定により、約40あった村が1町6か村に統合されました。
同じく明治時代には、青梅市にも鉄道が開通します。明治27年(1894年)には、立川と青梅を結ぶ鉄道が運行を開始しました。青梅市に鉄道を開通させた当初の目的は、日向和田の石灰山を開発して石灰石を運ぶことです。そのため、車両編成は石灰石を積んだ貨物車が中心。乗客が乗るための車両は、最後尾の1~2両のみでした。
今まで江戸へ向かうには青梅街道や甲州街道を歩いて行くしかなかった青梅の人々にとって、鉄道の登場はとても画期的で歓迎されたようです。また同時代の青梅市には郵便局や税務署も置かれ、交通面だけでなく行政面でも近代化が進みました。
戦後になり現在の青梅市が誕生!西多摩の中核都市として将来性が高まる
終戦を迎えた6年後の昭和26年(1951年)に青梅町・霞村・調布村が合併し、「青梅市」が誕生しました。現在の青梅市の市域になったのは、隣接する吉野・三田・小曾木・成木の4つの村が編入された昭和30年(1955年)です。
戦後まもなく青梅市の織物業が好況を迎え、生産量が増えて経済的にも潤うようになります。「ガチャンと織れば1万円もうかる」と言われるほどの盛況ぶりで、青梅市の景気のよさは「ガチャン景気」とも呼ばれました。
その後の工業化に伴い、街には工場が立ち並び、街並みも現在と近いものになりました。青梅市の産業の中心的存在だった織物業や林業は、時代の流れとともに衰退。今は工業団地を形成して企業を誘致したり、青梅宿の古い町並みをはじめとした観光資源をもとに新しいまちづくりを進めたりしています。
青梅市の伝統工芸品は室町時代の織物産業を原点とする「青梅夜具地」
青梅市の伝統的な産業のひとつに、織物業があります。正確な起源は明らかになっていませんが、室町時代には織物が作られていました。江戸時代になると青梅市で作られた織物は「青梅縞」と呼ばれ、着物用の生地として好まれていたようです。明治以降この青梅縞を寝具に仕立てて「青梅夜具地」として販売すると、全国的な人気を獲得。一時期は、全国の夜具地の織物のうち約60%を青梅市で生産していました。
青梅夜具地の特徴は、赤や黄色といった色鮮やかな色彩と華やかな絵柄。縁起のよい松竹梅をはじめ、鶴・菊・バラなどさまざまなデザインがあります。現在は寝具だけでなくバッグやポーチ、カードケースなども生産中。青梅市内のギャラリーなどで販売しているので、ぜひ足を運んでみてください。
青梅市の歴史にまつわるお出かけスポット5選!
現在の青梅市が位置する場所には、約1万6千年以上の歴史があることが分かりました。歴史を知ると、「昔はどんな景色だったんだろう」「あの歴史上の人物もこの場所に訪れたのかな」といつもの景色が違って見えることも。ちょっと街に繰り出して、散策したくなりますよね。
実は青梅市内ではかつての姿を忍ばせる遺跡や古い建物をあちこちで保存しており、歴史探訪を気軽に楽しめる場所が盛りだくさんです!ここでは、特におすすめの青梅市の歴史にまつわるお出かけスポットを5カ所紹介します。
青梅市郷土博物館|青梅市の歴史を知るならまずここ!
青梅市の歴史を知るなら、まずは青梅市郷土博物館を訪れてみましょう。旧石器時代から明治時代以降の展示を博物館です。縄文時代の土器や石器、中世の板碑、江戸時代ごろの古い家具、かつて青梅市で栄えた産業の青梅縞や青梅夜具地についても展示しています。
近世の村絵図もあるので、今自分が住んでいる場所や博物館を訪れるまでに通った場所などを探してみるのも楽しいかもしれませんね。そんな青梅市郷土博物館は、JR青梅駅から鮎美橋を通り徒歩約15分のところにあります。
出典:青梅市郷土博物館
金剛寺|青梅市の名前の由来になった「将門誓いの梅」があるお寺
金剛寺は、JR青梅駅から徒歩約15分のところにある真言宗のお寺です。境内には、青梅市の由来になった「将門誓いの梅」が植えられています。現在の「将門誓いの梅」は添え木が施されている老木で、青梅市の長い歴史を見守ってきた風格を感じられます。毎年2~3月にかけては梅の花が咲くので、ぜひ見に行ってみてください。
梅以外にも、金剛寺にはたくさんの見どころがあります。天保12年(1841年)の火災を免れて桃山時代の様式を残す「僧正門」と、インドから渡来した「仏足跡」は必見です。しだれ桜や藤など、季節の草花も美しいですよ。
出典:金剛寺
塩船観音寺|三田氏の支援で栄えたお寺のひとつ
塩船観音寺は、「大化の改新」で知られる大化年間(645年~650年)に創建されたお寺です。鎌倉時代以降、青梅の地を治めていた三田氏の支援により栄えた寺社仏閣のひとつで、現在も山門(室町時代・国指定重要文化財)や阿弥陀堂(室町時代・国指定重要文化財)など、貴重な文化財をたくさん保有しています。
春はつつじ、初夏はあじさい、秋は彼岸花の名所としても知られており、季節ごとの美しさを感じられる景色を見ようと年間を通して多くの参拝者が訪れています。特に春はカラフルなつつじが斜面を覆い、とても華やかな光景を見られますよ。
塩船観音寺は山の麓にあり、参拝するときは車を使うのが便利。JR河辺駅からは、お寺の近くを運行しているバスが発着しています。
出典:塩船観音寺
武蔵御嶽神社|古来より関東一帯から信仰を集める修験の地
武蔵御嶽神社は、青梅市の西側にそびえる武蔵御岳山の頂上に鎮座する神社です。標高900m以上ものところに佇んでおり、JR御嶽駅からバスと登山ケーブルカーを乗り継いでお参りできます。第10代崇神天皇7年に創建したと伝わっており、以降は修験の地として多くの人の信仰を集めました。
狛犬は神社の守り神であるニホンオオカミを模っており、「おいぬ様」と呼び親しまれています。「おいぬ様」にちなんで愛犬の健康祈願も受け付けていますよ。宝物殿では、平安から江戸にかけて東国を支配した武士たちが奉納した武具を展示。国宝や国指定・都指定の重要文化財もあるので、ぜひ足を運んでみてください。
出典:武蔵御嶽神社
青梅宿|青梅街道の賑わいを忍ばせる街並み
青梅市には、かつて「青梅街道」という江戸へ繋がる道がありました。「青梅宿(おうめじゅく)」はこの青梅街道沿いに江戸時代に発展した宿場町で、現在のJR青梅駅周辺エリアに該当します。現在は開発が進められていますが、通りの名前は「旧青梅街道」として残り、レトロな建物が点在している散策スポットとして人気です。
青梅宿でも特に古い建物は、旧稲葉家住宅です。江戸時代の豪商で青梅宿の町年寄を勤めた稲葉家の旧宅で、江戸時代後期の姿をそのまま残しています。ほかにも、昭和初期の建物を喫茶店として使っている津雲邸や、昭和30~40年代のお菓子や生活雑貨を展示している「昭和レトロ商品博物館」があります。カメラを片手に、ぜひ青梅宿エリアを歩いてみてください。
古くからの歴史をつむぐ街・青梅市
青梅市は、旧石器時代からの長い歴史をつむぐ街です。多摩川沿いでの集落の形成から始まり、三田氏による経済基盤の整備と寺社仏閣の復興、江戸時代の宿場町としての興隆を経て今に至ります。現在は人口約13万人が住んでおり、市街地と豊かな自然が共存した街並みになっています。
青梅市内には青梅の歴史が伺えるお出かけスポットがあちこちに点在しており、休日は歴史探訪や日本らしい季節ごとの風景を楽しめますよ。首都圏周辺で歴史に寄り添いながら穏やかに過ごせる街を探している方は、ぜひ青梅市を検討してみてください。
出典:青梅市|青梅市のプロフィール
出典:青梅市史編さん委員会『青梅市史 上巻』青梅市史編さん委員会/編集 1995
出典:吉川弘文館『国史大辞典 2』国史大辞典編集委員会/編 1980
出典:米光秀雄ほか『やさしい多摩市町村の歴史 : 青梅市 奥多摩町 桧原村 五日市町 八王子市』武蔵野郷土史刊行会 1981
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